あいむすぶ

日記という名の感情のはきだし

投稿者: ai

  • 1月14日(火)

    今日は蟹座満月。
    ということに気づいたのは午前中だったのだけど、
    今朝7:30に、最近登録していた神道について発信しているKさんという
    女性のLINEグループでの発信があり。
    たまたま、それを聴いた。

    いつものわたしなら、そんな朝の配信など聞かないし、
    ましてやその時間にまだ起きていない。
    だけど、昨日は早く布団に入り、何度も夜中に目覚めながらも
    まぁまぁ眠れたようで、朝以外とスッキリしていた。
    7時半前に「しっかり」目覚めていたこともあって
    何気なくきいてみたそのLIVE配信が、ものすごくビンゴ。

    自分にとって必要なメッセージがわんさか、あり。
    久しぶりに「奥の方」から湧く感じ。
    めちゃくちゃ嬉しい。その広がる感じ。出会った感じ。

    おーぉーーーー!!!
    という湧き出る感じのまま、Notionにメモして
    大事なメッセージを忘れないように書き残す。

    いや、凄いよ。
    最近Youtubeまた再開したいってずっと思ってた。
    配信、わたしもしなきゃなって。
    別に誰にも頼まれてないし、望まれてもない。
    なんだけど、「わたしも、やんなきゃ」が
    どうしても湧く。

    けど、きっかけつかめず。
    なんとなく始められてなかった。

    それが、今朝のメッセージを受けて
    「あ!すぐやんなきゃ!」「話さなきゃ!」と。

    しかも、気持ちがワクワクした状態で。
    ものすっごく湧いてる。この感じで。

    今日3本も録ったよ。笑
    ぜんっぜん喋れるね。
    話したい内容は、いっぱいある。

    動画にしてさ、自分できいてみたんだけど
    わたしの声、明るいわ。笑
    これまでの動画配信のときの声は
    まだ、なんかやっぱり「自分を隠してる」感じで。
    タロットやってたときもね
    自分に自信なくて。
    自分のこと「ダメだ」って感じながら、やってた。
    だから、なんか硬くて。嘘っぽくて。

    まぁ。そんなの自分しか感じてないかもだけど。
    今日の配信とは、エネルギーが全然違う。

    っていうのがわかるから、すごく嬉しい。

    しかも、今日1人チャンネル登録者が増えた。
    まだ15回再生くらいしかいってないけれど
    チャンネル登録10人だったし。笑
    全然、嬉しいね。

    なんか、続けなきゃ!!っていう義務感はないし。
    話したいことを、話していこうっていう
    すごくゆるい感じがありつつ、
    でも話たいことがあるから、たぶん
    どんどんアップしていきそう。
    息切れしたとしても、いい。
    わたしのチャンネルとして育てていこう
    って、すごく「安心」の中やれている。

    今、どういうわけかわからないけれど

    ものすごく「安心」してるのだ。

    なんでかは、わからない。
    けど、どうしたって「いいふうにしかならない」
    という感覚が、必ず湧いてきてしまう。

    相変わらず
    わたしは「言い返すこと」がやめられず
    パートナーとは同じことで怒られ、
    同じことの繰り返しなんだけれど。

    自分に「罪悪感」と「自己卑下」を
    与えることをやめたからだろうか。

    すごく胸がきゅうっっと締め付けられる
    感覚は、もちろんあるのだけど。
    でも、前みたいに「依存心」(見捨てられ不安)は
    感じてない。


    全然まだ状況は変わってないんだけど。
    でも、「いい未来」しか感じられない。
    感覚が、「安心」している。

    すっかり、切り替わってしまった。
    ネガティブな世界で終わらないこの感覚。

    なんなんだろうか。

    わからないけれど
    すごく嬉しい。

    こらからの変化も
    記していこうと思う。

  • 1月13日(月)

    もやもやしている。いらいらしている。
    本当かどうかわからないことで、「お前が間違えていた」と言われることが
    本当に嫌いだ。ものすごく不快。

    しつこく説明されるのも、ずっと不快だ。
    なぜそれが「相手の不快になっていること」がわからないのだろうか。
    どうして「自分の正しさ」を伝え続けてくるのか。
    もちろん、確実なことで、わたしが間違えているなら、いい。
    言われることを、納得して受け入れる。
    言い返すこともない。

    だけど、そうではないのだ。
    本人に実際きかなければわからないことを、
    こうだと決めつけて、わたしの言動がおかしかった、酷かったと
    何回も何回も咎められること、指摘し続けられることに、うんざりする。

    今に始まったことじゃない。何年もそうされていることに
    わたしは反発心しかない。
    感情的に「拒絶」が入っていると、とまらない。
    どうしても「物申したくなる」ので、言い返すことになる。
    どうしても、その衝動は止められない。


    元々、この元凶は「親」である。
    父親だ。父親が、まぁくどくど言ってくる。
    自分が「できもしない」ことや、「頭だけで知ってる」ようなことを
    基準にして、「おまえが間違えてる」と言ってくること。

    そういうことが、私は昔から大嫌いだ。
    そして、腹が立ってきて歯向かうし、言い返すし
    自分の主張をわたしは伝える。控えることがない。

    感情に飲み込まれる
    という状態である、と言われればそうだろう。
    腹が立つ。ただただ、相手の言うことを聞き入れるということはできない。

    ただ、今回の相手。
    父のように怒鳴りながら言ってきるか?
    というと、そうではない。

    が、伝えてくる内容は「お前が間違っている」ということ。
    そうであるかぎり、わたしは反応してしまう。

    感情を抑えるには
    一体どうすればいいのだろうか。

    どうしても、言い返してしまう。

    以前のように、罪悪感でいっぱいになったり
    することはもうしない。
    なぜなら、そうなると「不健康」になるからだ。
    自分を罪で罰し、自責にまみれると「病気になる」
    「ネガティブな自分で全てを破壊する」と
    わたしは学んだからだ。

    だから、罪悪感はもう感じない。
    そうならないために、自分を抑え、
    できるかぎりコントロールするように努める。

    今こうして吐き出していることも、そうだ。
    リアルタイムで、ちゃんと感情や気持ちに寄り添うこと。

    できない自分を、きちんと受け入れてあげること。
    不要なアクションを起こして
    負の種を蒔くことを、やめる。

    それが、今わたしがしていること。

    わたしはこれでも
    過去の自分よりも成長しているのだ。

    自分を、受け入れる練習。
    自分を、肯定する練習だ。

  • 1月7日(火)

    わたしの「信念」

    自分の問題が終わらなければ「子育て」なんて、できない。


    これは、信念だった。

    子育てなんて大事なこと。
    自分の「親子問題」がある状態で、できるわけがないだろう。
    まともに、「いい子育て」なんて、できるわけがない。

    これが、わたしの「想い」であり、原動力だった。

    子供の頃から切望していた、家族。
    両親も祖父母も、いる。なんなら兄と妹もいる。
    大人は4人もいた家庭だったけれど、機能不全だった。
    誰1人として「おとなな大人」がいなかった。

    わたしは「大人」として、子育てがしたかった。

    自分の「問題」を終わらせたかった。

    こどもができてから。
    1人目、2人目、とできて離婚して。
    真剣に自分の人生と向き合わなければいけなくなって。
    こどもたちと共に、どう生きていけばいいか。
    ものすごく不安で。怖くて。

    元々、自分の人生だけでも「わたし、なにやってんだろ」って
    ずっと思ってきたのに。

    大切ないのちが、二つ。
    大切な人生が、二つ。

    あまりにも「責任」が大きすぎた。

    絶対に、自分のこの「自分自身に対する不安」を
    取り除かなければ、この子たちを育てていくことなんか、できない。

    ものすごく強い気持ちだった。


    この10年。

    親のことを気にして。
    自分の問題をどうにかしたくて。
    それに過集中した結果

    生活は崩壊。
    こどもたちのことも、みれず。守れず。

    わたしは「おとな」になれなかった。

    いっこうに、なれなかった。

    わたしは家族を許せなかった。

    母親を、到底許せない。

    そのことに執着し、
    絶対に許せない気持ちを抱え続けていたわたしは
    案の定「子育て」ができなかった。

    終わるまで「できない」って、決めてんだから。
    それが、わたしの揺るぎない「信念」だったのだから。

    信念は、貫かれる。


    わたしは
    身を持って知った。

  • 2025年1月5日(日)

    むかつく。死ね。娘がこれだけ「助けて」って泣き叫んでも「こっちは働いとるんや」「おばあちゃんの世話しやんといかんから」って、逃げる。仕事に、親に、逃げ続ける。なんなんだ、あのクソ親。父親も母親も。

    10年。この10年の間にどれだけわたしが努力して、頑張って、耐えて、なんとか生きてきたか。殺さずに。助けてもらってきたから、殺さずに、死なずに、今生きているのに。

    自分はなんにも変わる努力も、理解しようとする行動も、思いも、何もないくせに。「カネをせびった」「男にいれこんだ」とわたしのせいにしてきやがって。偉そうに、暴言だけ吐くだけて。「手紙読んだ」というくせに、全く理解のりの字もない、頭悪いだけの田舎者のくせに、よくそんなおまえが、偉そうに「仕事続けてるだけ」ってだけで、友達も趣味も仲間もなんにもなくて、カネで繋がった妻に財布も全部握られて、頭上がらず。ずっと娘のこと助けられず。カネもない、女もいない、なんにもなくて。自分で選んだ人生が惨めなだけで、それが「わたしのせい」なんかじゃ全くないのに、全部「娘のせい」にして。期待ばっかりかけて、「成功しろ(俺のために)」って、バカじゃないの。ほんと、くそくらえ。死ね。病気になれ。

  • 2025年1月4日(土)3

    大人になりたくない。

    その思いが強すぎた。
    大人が嫌い。
    大人のしていることが嫌い。
    大人なんて。

    ピーターパン症候群、厨二病。
    なんでもいいが、わたしは「大人」がイヤだった。
    なりたくなかった。

    素敵な大人、憧れの大人。
    大人って、いいもんだな。早くなりたい。
    そんなこと一ミリも思ったことがなくて。
    大人を嫌煙していたから。
    大人を疑い、信用に値しないと決めて大きくなったから。

    いつまでたっても「大人」になれなかった。

    困った。
    非常に困ってきた。
    外側も年齢も「いい大人」なのに。
    内側で「抵抗している」のだから。

    でもそんなこと
    誰にもわからない。

    わかってもらったとしても
    それが、なんだって話で。

    どうにもならなかった。

    素敵な大人
    憧れの大人
    信用に値する大人

    わたしの中の
    それらの定義は
    どうなっているんだろうか

    とても漠然としていて
    掴みようのないままにしている気がする。

    「一緒くた」にするな。

    そして

    「完璧」を求めるな。

    だけども

    「大人」に

    わたしは、なりたい。

  • 2025年1月4日(土)2

    自己理解、自己認識。
    自分で「自分のこと」をどう感じ、どう思うか。
    それも、すごく大事だし。

    自分以外の「だれか」から
    自分のことをみてもらうこと。
    どう感じ、どうみえるのか。

    外側からみる「自分のこと」も、大事。

    全然違ったりするので、面白い。

    面白い、と思えるまでに
    ガッカリしたり、びっくりしたり。
    逆に嬉しかったり、誇らしい気持ちになったり。
    色んな感情を刺激されることになる。

    わたしは、そうだったな。
    面白い、と思えるまでに、いろいろな感情が出て。

    自分が思っているより
    自分のことって、わからない。知らないんだなって。
    驚きが1番大きかったかもしれない。

    自分の中ですら「もう1人の自分」がいて。
    全く統合されてないような状態だったから、
    余計そうだったのだと思う。
    今思えばね。

    乖離している状態で
    自分のことなんて、わかってこない。

    そういう意味で
    自分の人生なんて「始まってない」ように思う。

    それが、正直なところ。

  • 2025年1月4日(土)

    昨日「つづき」を書こうと思ったけれど、書かずに終わった。

    パートナーと仲直りして電気毛布と毛布が戻ってきた。
    生理中なので、お布団が温かいと最高にしあわせ。
    電気のチカラってすごいね。
    いや、ガスが通ってれば部屋全体を暖めておけるんだけどね。

    寒いと、体がぎゅっとかたくなる。
    豪雪地帯は、特に「冬季鬱」になりやすい。
    まんまと、鬱々とした状態になることも多いので
    部屋が寒いと、さらにメンタルに響く。

    けど、
    やはりこう思う。

    人間関係で「しあわせ」な状態が生まれると

    それだけで「活力」が湧いてくる。
    そのエネルギーで、物質的・物理的なネガティブは
    跳ね除けるチカラが湧いてくる。

    だから

    人間関係で「しあわせ」か、どうかって重要。

  • 2025年1月3日(金)

    「人生で最低最悪な年末年始になったんじゃないだろうか。
    2024年から2025年にかけて、パートナーと悲惨な「いつもの惨劇」を迎えてしまった。わたしたちの、というか「わたし」のいつもの失敗は「感情的になること」で、言葉の選び方、伝える内容、伝え方を大いに間違えて、パートナーにまた「イヤな気持ちにさせる」という。

    そのいつもの失敗で、0百思考のわたしは常に「縁を切る」ということをすぐに考えて、想像して、「終わらせよう」とする。これは、もうこの10年何百回あっただろうか。いい加減、やめるだろう。自分でもイヤになるし、相手もよく「付き合ってくれている」と思う。というか、相手が変わってくれないことで、わたしはイライラしたり、「いい加減変わってくれてもいいのに」とずっと思ってきたが。

    明らかに、冷静に感じ、考えると、わたしが「悪い」のだ。
    いやいや、自分をそんなに責める必要はないよ、と味方になってあげたい気持ちは山々だけれど。わたしが「悪い」と、自分で感じている。

    なぜなら、毎回、ほとぼりがさめると、どう考えてもわたしが「トリガーさせられている」こと。そして「過去にタイムスリップ」してまた同じ感情を「今」に持ち越している。そのことが原因で、相手に「ネガティブでイヤな気持ちと感情をぶちまけている」のです。そうでしかない。

    それを、パートナーはがんとして「よし」とは、しない。
    よしとしてくれない。最初から一貫している。「おまえ、ネガティブだよ」と、優しく伝えてくれることもあれば、「怒る」をつかって、気づかせようとしてくれることも。いずれにせよ、「相手はわかっている」(冷静)なので、こちらの様子はありありとわかるのだろう。

    なぜ、10年も「そんな相手(わたし)」に耐えられるのかというと、プロだからだ。彼は、その道のプロである。だから、できることでもあり、そういう意味で、私は本当に恵まれていると思う。この出会いを奇跡と呼ばず、なんと呼ぶのだろうか。と、毎回そう感じている。それだけの「対価」がわたしにあるのだろうか、と。ずっと自信がなかったけれど。「ある」と受け入れ、そして、謙虚に、自分が「指摘されている成長ポイント」をしっかりと認め、受け入れて。切り替えていく。ただ、それでしかない。

    にしても、今回は久しぶりに「重く、深く」感じ、考えさせられた。

    いいかげん、10年目。という節目だから。
    もう、わたしが「無理です」と断言し、嫌われるようなことをいい、連絡を無視し。「言葉にすること」を諦め続ければ、きっと相手は、いよいよ「諦める」だろう。いいかげん、愛想をつかし、呆れて、「終わりを迎える」だろう。私としては「そうするしかないから、仕方がない」という正当化して以降の人生が始まる。そういう算段で、いつもいる。

    けれど、やはり、そうはならない。

    わたしのパートナーは本当に、凄いと思う。
    こんな私のことを、いまだに信じてくれている。
    そして、ものすごく大好きで、ものすごく愛してくれている。
    本当に、嘘みたいだけれど。
    本当に、実在している人間で。
    わたしにとって、もったいないくらいの存在、男、人間である。

    と、
    落ち着いた気持ちでパートナー自慢をしたいのではなく。

    「自己対話」

    だ。

    そう、今回の「ことの始まり」は、シェフとのことだった。
    バイト先のシェフに、長々とメールを送り、その返事に対して「謝罪のことば」だけがあって。わたしは、その「ただ、謝ってくれた言葉」に対して必要以上に「感情的」になり。わんわん泣いたのだ。

    そんな、感傷的になるような出来事ややりとりでもなく。シェフとも全く深い関係性でもなんでもない。だから、わたしがそこまで感情的になる理由は実質なかったのだけど。わたしは、溜まりに溜まっていた「悔しさ」が、そのときに爆発していた。

    前日に、「仕事」でものすごく悔しい思いをした。頭では状況や自分のスペック、今回のバイトの条件。色々と「頭では理解できていること」だったはずだったけれど。結局は「人間関係」で人は感情を呼び起こされる。

    いつもの単発バイト先であれば、別に同じようなことになってもスルーできる。だけど、なぜスルーできなかったのか。現場ではスルーできた。それはそれで、私の中では「大きな成長」だった。

    以前のわたしであれば、確実に表情や声に出て、切り替えできない状態で、完全に「不機嫌」オーラを出しまくっていただろう。だけど、流石に少し成長しているのだ。適度に流し、必要なことは話してやりとりをする。前向きに取り組む。それで、「よかった」のだけれど。結局、自分が「やりたいくない」ことを、目先のお金のために「断れない」でいたし、「これくらい、いいや」と受け入れてしまっていた。本当に、これは、私の悪い癖で。「これくらい、受け入れないと」と。権力の前で、自分を曲げる。権力に負けている。断ってもいい内容なのに。断らないことで、相手に「利用される」「つけこまれる」ということを許している。

    そういう「我慢」を、わたしは今回いくつも既にしていた。
    それが、後々「不満として爆発すること」となった。これは、本当に昔からだ。愚痴を言わない、と決めてきたことと同じくらい、わたしはこの悪い癖を持ち続けていて。そのストレスをパートナーや他の人にぶつけてしまうことになる。この負のループを、わたしはまだやめられていない。

    だから
    ここで宣言をする。

    わたしは、

    「権力に負ける自分をやめる」
    「権力に、屈する自分をやめる」
    「目先のお金のために、やりたくない事を許可することを、やめる」
    「ダメ男に、自分の大事なエネルギーを注ぐのを、やめる」

    わたしは、男に謝って欲しかったんだ。

    ということに、気づいた。
    シェフに色々と「自分が思っていること」を長々と書いて送った。
    実際、シェフは「めんどくさい」から適当に謝ってすませただけだが。

    わたしにとっては、その「ただ、謝られたこと」が「大きな気づき」を与えてくれた。自分の言い分、自分が思っている「本当に、イヤだったこと」を相手にちゃんと伝えること。それで、相手が謝ってくれること。

    わたしは、祖父にも父にも兄にも、ちゃんと謝ってもらったことがない。
    そのことについて、許せない気持ちでずっといる。腹が立つ。謝って欲しい。謝れ。なぜ、わたしばかり謝る必要があるのか。無視されることになるのだ。謝れ。

    そういう怒りの感情が、本当に強くある。
    わたしは何を謝って欲しかったのだろうか。

    祖父に対しては
    ・私の手紙を勝手に開けて読むこと
    ・読んだことを言わずに、当たり前なことだと思っていること
    ・わたし宛の電話を、勝手に「孫は不在です」と嘘をついて切っていたこと
    ・それをわたしに言わずに、ずっと黙っていたこと
    ・そして、それをわたしに指摘されて怒られているにもかかわらず、謝らないこと
    ・母に対して(祖父にとっての実の娘)ちゃんと謝ってあげて、と半お願いしたのに、全然理解することなく。年寄りぶって誤魔化して逃げたこと
    ・居眠り運転ばかりして、蛇行しているような車に乗せて、危険で怖い思いを何度もさせたこと

    父親に対しては
    ・私のことを理解しようとせず、いつも頭ごなしに「お前がアホなんや」と罵ってきていたこと
    ・自分はできないくせに、娘への期待ばかり高かったこと
    ・自分が間違えていても、言い訳ばかりで謝らないこと
    ・妻に頭が上がらず、娘のわたしを守れなかったこと
    ・わたしに対して暴力をふるい、その後母と一緒に笑っていたこと
    ・初めて妊娠したとき、「おめでとう」や喜びの一言もなく、ただただ当時の彼を責めたこと(両家公認で4年も真剣に交際していた相手だったのに。自分の相手の父親に対する劣等感ゆえの態度対応だった)

    兄に対しては
    ・勝手に「比較」して争って、わたしのことを「敵視」していたこと
    ・自分は後継ぎがイヤなら、断ればいいのに。断れない自分がただ「勇気と覚悟がない」だけのくせに、わたしに対して攻撃的で。勝手にわたしを「敵視」していること
    ・祖母のことが嫌いだから、そんな祖母から、兄の大事な娘と息子が「イヤな思い」をしないように、何度も守ってあげていたのに。そんなわたしの気遣い(頼まれてはいない)にも気づけず。当たり前のように思っていること
    ・わたしを殴ったこと(本来であれば親に怒るべきことなのに)
    ・親に怒れない、親に対して『言えない』からって、全部わたしにイヤなことを言ってくること

    思い出すと、こういうことでそれぞれに「謝って欲しい」と思ってきた。望んできた。いまだに「感情的になっている」自分がいる。

    だけど、
    どうだろうか。

    彼らは、本当に「ダメな男」だ。
    本当に、「謝れない」のだから。

    家族に、孫に、娘に、妹に。
    ちゃんと謝れないような人たちなのだ。

    わたしは、謝罪している。
    自分が「悪かったな」と思った、感じたタイミングで。
    いいえ、自分で気づいたわけではない。
    恩師であるパートナーが気づかせてくれたこと。

    わたしはわたしで、自分の「非」に気づけていなかった人間だ。
    だから、かつては彼らと「同じ」だった。同類。
    全く「人に謝れない」人間性、人種だった。

    けれど、
    わたしは「自分を変えたい」と必死だった。
    こどもたちのために。

    そのために、必死で食らいついた。
    必死だったし。本気だったから。
    「本気」を受け止めてくれる、「わかる」人間性のパートナーが
    わたしを受け入れてくれて、鍛え続けてきてくれた。

    そのおかげである。

    わたしが、「謝れる」自分になってこれたのは
    本当に、彼の大きな愛の関わりのおかげです。


    きちんと「謝れる人間」になること。
    そういう「あり方」で生きること。

    わたしは、全然そうじゃなかったから。
    そうじゃない家族の中で育ってきて。
    ちゃんと謝るって、どういうことかわからないまま大人になってしまった。

    恥ずかしいことに、そうだったから。
    いつまで経っても、ちゃんとした「人間関係」を築くことができなかった。
    当たり前だよね。謝れないんだもの。
    そんな人と深く関わり続けるなんて、できない。

    できないから、彼は「きちんと怒る、叱る」をし続けてきてくれた。

    わたしは、
    本当に「恵まれている」と思う。

    自分が変わりたかったことは、確かだけれど
    でも、ここまで「関わり続けよう」としてくれる
    パートナーみたいな人が居てくれたことで
    わたしは自分を諦めないですんだ。

    まだまだ、自分が成長すべきところは沢山あり。
    人間関係における課題も、色々とある。

    そんな今だけど。
    でも、わたしは確実に「謝れること」ができるようになってきている。
    完璧ではないけれど。いまだにトラブルを生むこともあるけれど。
    過去の自分と比べて「できること」は増えている。

    もう、許してもいいんじゃないだろうか。

    いつまでも
    過去に「謝って欲しかったひとたち」のこと。
    自分の中に「イヤなもの」「イヤな感情」として
    残しておく理由があるだろうか?


    そんなに「大事なこと」だろうか。
    今。
    今のわたしにとって。
    今、わたしの大切な人たちにとって。

    わたしが抱えているそれらは
    何か「いいもの」を与えてくれる?

    ないよ。
    一つもないよ。

    なんなら「害」だよ。
    イヤな気分。そして、対人関係における「ネガティブな感情」の発露。
    その原因。そのトリガー。

    なんにも、いいことない。

    じゃあ、もう「どうでもいい」じゃない。
    私は、もう彼らと「違う」わけで。
    私は、確実に「謝れる自分」を手にいれてきている。

    ステージが、違うじゃない。

    関わる人たちだって、変わる。
    もう、変わっていい。

    いつまでも、
    そういう「ダメな男」にわかってもらいたい。認められたい。謝って欲しい。

    そんな欲。希望願望。
    終わらせていいじゃない。

    別に、全然「いいものじゃなかった」じゃない。
    シェフに謝ってもらって「気がついた」けどさ。
    あんなもんだよ。もし、謝ってもらったとしても。
    口だけ。もしくは「世間体(自分のデメリットを避けるため)」のことでしょう。

    そうじゃなきゃ、既に「謝ってる」でしょう。

    ね。

    謝れないんだからさ。
    そういう「人間性」の人たちじゃん。残念ながら。
    なんか、未練ある?

    ないよね。
    家族だったけど。
    そういう人たちが「たまたま、昔一緒に暮らしてた」けどさ。
    もう、うんと昔で。
    しかも、彼らは彼らで「全然違う人生(世界)」を生きている。

    それで、いいじゃない。

    彼らは彼らで、わたしに対して「思うこと」あるだろうけど。
    もう、別に「関わる必要も理由もない」わけで。
    全然、なくて平気だから、「今」なわけだし。

    今、
    求めたいもの、本当に、ありますか?



    ない!!!!!!!!!!!



    ないじゃん!!!笑


    じゃあ、もう、本当にいいじゃん。
    思い返すの、終わり。
    いつまでも、「ネガティブ」で「不要な欲求」持つの、終わりね!!!!!

    うん。
    だいぶスッキリしてきた。

    まじで、いらね。


    要らないもの
    抱えていたなーーー。

    もう少し、別で書こう。「男に対して」のこと。

    つづく

  • 2024年12月30日(月)

    心臓あたりが締め付けられて、ものすごく圧迫感が強い感じ。
    ここ半年くらいで、特に「そういう時間」が強くなってきた。

    叱られすぎて、失敗しすぎて、怒られすぎて。
    上手くいかなすぎて、結果がでなくて、自己嫌悪しまくって。
    自己否定して、自分に「イヤな言葉」を自分でもかけまくってきて。
    もうどれくらい経つだろうか。

    助けてもらってきた感謝よりも、イヤな気持ちがうわまっていて。
    とにかく「同じこと」の繰り返しが終わらない。
    負のループが終わらない。

    そして、その度に虚しさと、どうでも良さとを感じ。
    そして心臓が圧迫されていく。
    ものすごく辛い。

    ものすごく泣くこともあれば
    涙なんか一滴もでずに冷めている時もある。

    夜、できるだけ早く床につくようにするが
    眠れるわけもなく。1時間2時間とうだうだ「イヤな気持ち」を感じ。
    気づいたら眠っているけれど、朝起きてもどんより。心臓が痛い。体も重い。

    つまり、起き上がれない。
    目覚ましは8時半。だけどその時間に起き上がることはない。
    9時には、と思って二度寝する。
    9時台には、必ず。

    そう強く思ったとて、体も心も全く準備ができず。
    起き上がれない鉛のような塊を転がして、
    そのまままた目を瞑る。
    そのまま眠ってしまえばいいのに、と
    何度も何度も思ってきた。

    必ず、目を覚ます。
    そしてまた変わらない日々。

    心臓は、重い。

    どうして、こんなに重いのか。

    わたしの「こころ」は死んでない。
    だから、こんなにも「感情」に苦しんでいる。

    脳のせいでもあるのだろうが
    脳はわたしの思い通りにはなってくれない。
    こころなら、そうなるのか?
    こころだって、そうならない。

    無意識が95%なら、
    わたしたちがコントロールできることなど
    ほぼほぼ、ないに等しい。

    今、わたしは「はなし」をしたくない。
    言葉で人と会話することを嫌悪している。
    パートナーと話したくない。

    感情的になるし、「謝る」ことができないからだ。

    謝ること。

    男は、なぜ謝らないのか。

    なぜ、女に求めるのだろうか。
    謝ってもらうことを。

    わたしの家族だった祖父、父、兄。
    この1番ちかしい、血の繋がった男たちは、
    まぁ「謝らない」人間であった。

    本当に、謝らない。

    祖父は支配の男。ワンマンな一人っ子だ。
    父は田舎者で理屈だけは達者。口が悪い。
    兄はクソ真面目でプライドの高い地味な男。

    誰一人、まともに「謝ること」がなかった男たち。

    そんな男たちに囲まれて育った。

    祖父はわたしの母(祖父にとっての娘)を「言うことをきかない」からと言って蹴り飛ばしたり、暴力を平気でふるうような男だった。

    父も兄も「図星なことを言ってくるわたし」に対して
    手をだすような未熟な男たちだった。

    男を怒らせる女が「悪い」のだろうか。
    そして、いつだってその「悪い女」が男のために
    謝らねばいけないのだろうか。

    この構図は、なんなんだろうか。

    わたしは、だから、「男に謝ってもらう」という経験が少ない。

    そうだ。最初に、印象的だったのは
    20代の頃、わたしが初めて真剣交際した相手で、4年間結婚前提でつきあっていた時の相手のお父さん。

    私はその時の彼とは何度も別れては復縁し。そして最終的に
    こどもができたのだけれど、わたしが「親のせい」にして中絶をして、別れた。そんな相手だったのだけれど、彼のお父さんは「俺の息子が悪かったなら、一緒に謝らせる。ちゃんと、謝る。だからなんとかもう一度復縁をしないか。考え直してくれないか」と。電話でも伝えられて、それでも断ると、うちまで直接やってきて「謝りたい」と。

    なぜか、そこまでしてくれるほど、私は彼のお父さんから気に入られていた。私も、お父さんのことは尊敬していて。大好きだった。こんなお父さんの娘になれるんなら、どれほど幸せだろうかと。想像していた。
    彼と結婚することは、わたしにとって「幸せ」であった。

    だけど、わたしが台無しにした。彼は全く悪くなかった。
    わたしの親、家族の問題だった。

    そう。
    1番最初に、「男に謝ってもらった」経験は、交際相手のお父さんだった。
    大手企業の部長をしている人で。二十歳すぎの若造のわたしに対しても、いつも会うと丁寧語で。優しく話しかけてくれて。すごく、居心地がよかった。彼のお父さんお母さんと一緒に過ごす時間は、とても幸せだった。

    わたしは、父にも、兄にも、まともに「謝ってもらう」ことがなかったから。祖父だって、平気で嘘をつく人間で。どれだけ怒っても、謝られたことなんかなかった。

    そして、つい最近のこと。
    わたしはフレンチレストランでのバイトを何度かしていて。
    オーナーのシェフと連絡先を交換していた。直接やりとりしてバイトが決まった。が、条件が不一致なことが発覚したり、職場でとても失礼な扱いを受けたりと、イヤな思いをすることが重なった。シェフに対しても信用を失うようなことだったので、思い切ってメールで伝えて。「バイトは昨日で最後にさせてもらいます」と。1年の中で1番繁忙期であろうクリスマスのバイトを当日辞退することにした。元々、わたしでは力不足だったので、サービスの責任を負えないということも伝えていた。

    相手からしたら、けっこう「いやなこと」だったと思う。
    なので、キツイ内容の返信が返ってくることを想像していた。相手は相手の都合や立場があるから、そういうキツイ内容が返ってきても。それはそれで、真摯に受け止めようと心づもりしていた。

    けれど、予想に反し。返ってきた返信はこうだった。

    「なんだか、申し訳なかったです。結果的に、ごめんね」と。

    わたしは、この内容を読んで
    気づいたら、涙がたくさん溢れて出ていた。

    理由は、色々と思いついた。
    自分のサービスの技量が、おいつかなくて。本当は自分がお店に対して申し訳なかったのと。悔しい気持ちと。
    だけど、もっとできるはずと思う気持ちとは裏腹に、望まれている判断のその基準がわからず。色々と酷い言葉をかけられたり、シェフの補佐役の奥様には呆れられるような態度をとられ、昔長く働いていた女性にもバカにされ、帰りに「お疲れ様でした」と、挨拶を2回も声かけしたのに、2回とも無視をされて。ものすごくイヤな気持ちになったこと。

    上手くできなかったことの悔しさが大きいけれど。
    でも、そもそも、そんなバイトにすがるしかない自分のことが情けなく、悔しくもあり。

    指示を上手く行動にうつせない。そういう、これまでの職場でも上手くいかないこと。パートナーともずっと「問題」になって失敗ばかりになっていることの、いろいろな積み重ねを思い出して、涙が溢れていた。

    そして、
    こう思ったのだ。

    「ああ、わたしは男の人に謝って欲しいんだな」

    と。

    自分の思いを伝えて。
    自分の「いやだ」と思うことをちゃんと伝えて。
    そのことに対して、何もわずに、ただただ「謝る」ことをして欲しい。
    してくれる「大人な男性」を、きっと求めていたんだなって。

    大人は、謝れるから。

    「大人な男」
    「大人な男性」

    を、わたしは
    これまでの人生で、

    本当は「切望していた」のだと思う。



  • 2024年12月29日(日)

    長年のパートナーがいる。
    男女関係でもあり、恩師でもある。長い付き合いで、こどもも含めお世話になっている。わたしは、母と実家の家庭環境の問題をずっと抱えていた人だった。今でもひきづっていて、なかなか「おわり」が見えない中にいて。
    正直、辛い。

    いわゆる共依存で、家族は機能不全であった。
    そしてわたしは発達特性が強く、場や環境のエネルギーにも敏感な人で。
    子供の頃に既に「家を早く出たい」と思っていた。

    家は、祖父母が家業を営み、母が継ぐことになり、父が婿養子に入った家庭。家族は公私混同で、祖父母はワンマンな昔ながらの「支配的な人間」だったので、父も母もずっとそんな祖父母と「衝突」していた。
    なので、自宅でもその影響は大きく。わたしはそんな「いがみあい」の家族の中で育ってきた。

    祖父母は「平気で嘘をつく」人たちだった。
    なので、私は小さい頃に既に、大人を信用していなかった。
    母は母で、ADHD気質が強い人で、約束のやの字もないような人だったので、母が「○分後に迎えにいく」というような、習い事の迎えの時間など、まぁアテにならなかった。10分と言って、1時間遅れてくるとか当たり前。

    しかも当時は公衆電話で電話をかけ、自宅にかけるしかなかった。自分はかけるけど、私への連絡手段は、ない。ただひたすら、来るのを待つしかなかった小学校から中学生時代。高校ではポケベルを持っていたので、まだマシだったけれど。母の「口だけの時間の約束」はほぼ守られることなどなかった。

    「約束」なんて、誰からも学ばなかった。

    なので、大人になって大変だった。どのくらい「約束」が大事なのか。
    その、小さな積み重ねが「信用」という大事なものになるのか。

    全く、知らないで大きくなってしまった。

    こんな話をする予定ではなかったのだけど。結局、こういうところに行き着く。むかつく。「親に教えてもらえなかった」ということを、いまだに「言い訳」にしている自分にも、ほとほと嫌気がさしているのだけれど。

    でも、やめられない。

    やめるべきことを、わたしはやめられず。
    いまだに、恩師でありパートナーである、1番「大切な人」に
    同じことを伝えられている。

    いい加減、イヤなのに。
    どうしてやめられないのだろうか。

    どうして「感情的」になることを
    わたしはやめられないのだろうか。

    イヤになる。

    全てを「壊したくなる」衝動を、抑えられない。

    色々「言われること」も、もう聞きたくない。

    頑張っていること、前向きにやっていることを
    認めて欲しい。受け入れてもらいたい。

    これまでと「同じ」ではない自分を

    どうして感じてもらえないんだろうか。

    それとも
    本当に「同じ」なんだろうか。

    わたしは「一ミリも変わってない」のだろうか。

    自分で自分のことがわからない。

    そんなことは
    今に始まったことじゃないけれど。

    人は、どこまで「複雑」なんだろうか。

    わたしが勝手に「複雑」にしているのだろうか。

    本当は「簡単」なんだろうか?

    簡単に「望む結果」が手に入るのだろうか?

    手に入らないようにしているのだろか。

    この堂々巡りの負のループを抜け出すには
    どうしたらいいんだろうか。

    虚しい。
    悲しい。