あいむすぶ

日記という名の感情のはきだし

2025年1月3日(金)

「人生で最低最悪な年末年始になったんじゃないだろうか。
2024年から2025年にかけて、パートナーと悲惨な「いつもの惨劇」を迎えてしまった。わたしたちの、というか「わたし」のいつもの失敗は「感情的になること」で、言葉の選び方、伝える内容、伝え方を大いに間違えて、パートナーにまた「イヤな気持ちにさせる」という。

そのいつもの失敗で、0百思考のわたしは常に「縁を切る」ということをすぐに考えて、想像して、「終わらせよう」とする。これは、もうこの10年何百回あっただろうか。いい加減、やめるだろう。自分でもイヤになるし、相手もよく「付き合ってくれている」と思う。というか、相手が変わってくれないことで、わたしはイライラしたり、「いい加減変わってくれてもいいのに」とずっと思ってきたが。

明らかに、冷静に感じ、考えると、わたしが「悪い」のだ。
いやいや、自分をそんなに責める必要はないよ、と味方になってあげたい気持ちは山々だけれど。わたしが「悪い」と、自分で感じている。

なぜなら、毎回、ほとぼりがさめると、どう考えてもわたしが「トリガーさせられている」こと。そして「過去にタイムスリップ」してまた同じ感情を「今」に持ち越している。そのことが原因で、相手に「ネガティブでイヤな気持ちと感情をぶちまけている」のです。そうでしかない。

それを、パートナーはがんとして「よし」とは、しない。
よしとしてくれない。最初から一貫している。「おまえ、ネガティブだよ」と、優しく伝えてくれることもあれば、「怒る」をつかって、気づかせようとしてくれることも。いずれにせよ、「相手はわかっている」(冷静)なので、こちらの様子はありありとわかるのだろう。

なぜ、10年も「そんな相手(わたし)」に耐えられるのかというと、プロだからだ。彼は、その道のプロである。だから、できることでもあり、そういう意味で、私は本当に恵まれていると思う。この出会いを奇跡と呼ばず、なんと呼ぶのだろうか。と、毎回そう感じている。それだけの「対価」がわたしにあるのだろうか、と。ずっと自信がなかったけれど。「ある」と受け入れ、そして、謙虚に、自分が「指摘されている成長ポイント」をしっかりと認め、受け入れて。切り替えていく。ただ、それでしかない。

にしても、今回は久しぶりに「重く、深く」感じ、考えさせられた。

いいかげん、10年目。という節目だから。
もう、わたしが「無理です」と断言し、嫌われるようなことをいい、連絡を無視し。「言葉にすること」を諦め続ければ、きっと相手は、いよいよ「諦める」だろう。いいかげん、愛想をつかし、呆れて、「終わりを迎える」だろう。私としては「そうするしかないから、仕方がない」という正当化して以降の人生が始まる。そういう算段で、いつもいる。

けれど、やはり、そうはならない。

わたしのパートナーは本当に、凄いと思う。
こんな私のことを、いまだに信じてくれている。
そして、ものすごく大好きで、ものすごく愛してくれている。
本当に、嘘みたいだけれど。
本当に、実在している人間で。
わたしにとって、もったいないくらいの存在、男、人間である。

と、
落ち着いた気持ちでパートナー自慢をしたいのではなく。

「自己対話」

だ。

そう、今回の「ことの始まり」は、シェフとのことだった。
バイト先のシェフに、長々とメールを送り、その返事に対して「謝罪のことば」だけがあって。わたしは、その「ただ、謝ってくれた言葉」に対して必要以上に「感情的」になり。わんわん泣いたのだ。

そんな、感傷的になるような出来事ややりとりでもなく。シェフとも全く深い関係性でもなんでもない。だから、わたしがそこまで感情的になる理由は実質なかったのだけど。わたしは、溜まりに溜まっていた「悔しさ」が、そのときに爆発していた。

前日に、「仕事」でものすごく悔しい思いをした。頭では状況や自分のスペック、今回のバイトの条件。色々と「頭では理解できていること」だったはずだったけれど。結局は「人間関係」で人は感情を呼び起こされる。

いつもの単発バイト先であれば、別に同じようなことになってもスルーできる。だけど、なぜスルーできなかったのか。現場ではスルーできた。それはそれで、私の中では「大きな成長」だった。

以前のわたしであれば、確実に表情や声に出て、切り替えできない状態で、完全に「不機嫌」オーラを出しまくっていただろう。だけど、流石に少し成長しているのだ。適度に流し、必要なことは話してやりとりをする。前向きに取り組む。それで、「よかった」のだけれど。結局、自分が「やりたいくない」ことを、目先のお金のために「断れない」でいたし、「これくらい、いいや」と受け入れてしまっていた。本当に、これは、私の悪い癖で。「これくらい、受け入れないと」と。権力の前で、自分を曲げる。権力に負けている。断ってもいい内容なのに。断らないことで、相手に「利用される」「つけこまれる」ということを許している。

そういう「我慢」を、わたしは今回いくつも既にしていた。
それが、後々「不満として爆発すること」となった。これは、本当に昔からだ。愚痴を言わない、と決めてきたことと同じくらい、わたしはこの悪い癖を持ち続けていて。そのストレスをパートナーや他の人にぶつけてしまうことになる。この負のループを、わたしはまだやめられていない。

だから
ここで宣言をする。

わたしは、

「権力に負ける自分をやめる」
「権力に、屈する自分をやめる」
「目先のお金のために、やりたくない事を許可することを、やめる」
「ダメ男に、自分の大事なエネルギーを注ぐのを、やめる」

わたしは、男に謝って欲しかったんだ。

ということに、気づいた。
シェフに色々と「自分が思っていること」を長々と書いて送った。
実際、シェフは「めんどくさい」から適当に謝ってすませただけだが。

わたしにとっては、その「ただ、謝られたこと」が「大きな気づき」を与えてくれた。自分の言い分、自分が思っている「本当に、イヤだったこと」を相手にちゃんと伝えること。それで、相手が謝ってくれること。

わたしは、祖父にも父にも兄にも、ちゃんと謝ってもらったことがない。
そのことについて、許せない気持ちでずっといる。腹が立つ。謝って欲しい。謝れ。なぜ、わたしばかり謝る必要があるのか。無視されることになるのだ。謝れ。

そういう怒りの感情が、本当に強くある。
わたしは何を謝って欲しかったのだろうか。

祖父に対しては
・私の手紙を勝手に開けて読むこと
・読んだことを言わずに、当たり前なことだと思っていること
・わたし宛の電話を、勝手に「孫は不在です」と嘘をついて切っていたこと
・それをわたしに言わずに、ずっと黙っていたこと
・そして、それをわたしに指摘されて怒られているにもかかわらず、謝らないこと
・母に対して(祖父にとっての実の娘)ちゃんと謝ってあげて、と半お願いしたのに、全然理解することなく。年寄りぶって誤魔化して逃げたこと
・居眠り運転ばかりして、蛇行しているような車に乗せて、危険で怖い思いを何度もさせたこと

父親に対しては
・私のことを理解しようとせず、いつも頭ごなしに「お前がアホなんや」と罵ってきていたこと
・自分はできないくせに、娘への期待ばかり高かったこと
・自分が間違えていても、言い訳ばかりで謝らないこと
・妻に頭が上がらず、娘のわたしを守れなかったこと
・わたしに対して暴力をふるい、その後母と一緒に笑っていたこと
・初めて妊娠したとき、「おめでとう」や喜びの一言もなく、ただただ当時の彼を責めたこと(両家公認で4年も真剣に交際していた相手だったのに。自分の相手の父親に対する劣等感ゆえの態度対応だった)

兄に対しては
・勝手に「比較」して争って、わたしのことを「敵視」していたこと
・自分は後継ぎがイヤなら、断ればいいのに。断れない自分がただ「勇気と覚悟がない」だけのくせに、わたしに対して攻撃的で。勝手にわたしを「敵視」していること
・祖母のことが嫌いだから、そんな祖母から、兄の大事な娘と息子が「イヤな思い」をしないように、何度も守ってあげていたのに。そんなわたしの気遣い(頼まれてはいない)にも気づけず。当たり前のように思っていること
・わたしを殴ったこと(本来であれば親に怒るべきことなのに)
・親に怒れない、親に対して『言えない』からって、全部わたしにイヤなことを言ってくること

思い出すと、こういうことでそれぞれに「謝って欲しい」と思ってきた。望んできた。いまだに「感情的になっている」自分がいる。

だけど、
どうだろうか。

彼らは、本当に「ダメな男」だ。
本当に、「謝れない」のだから。

家族に、孫に、娘に、妹に。
ちゃんと謝れないような人たちなのだ。

わたしは、謝罪している。
自分が「悪かったな」と思った、感じたタイミングで。
いいえ、自分で気づいたわけではない。
恩師であるパートナーが気づかせてくれたこと。

わたしはわたしで、自分の「非」に気づけていなかった人間だ。
だから、かつては彼らと「同じ」だった。同類。
全く「人に謝れない」人間性、人種だった。

けれど、
わたしは「自分を変えたい」と必死だった。
こどもたちのために。

そのために、必死で食らいついた。
必死だったし。本気だったから。
「本気」を受け止めてくれる、「わかる」人間性のパートナーが
わたしを受け入れてくれて、鍛え続けてきてくれた。

そのおかげである。

わたしが、「謝れる」自分になってこれたのは
本当に、彼の大きな愛の関わりのおかげです。


きちんと「謝れる人間」になること。
そういう「あり方」で生きること。

わたしは、全然そうじゃなかったから。
そうじゃない家族の中で育ってきて。
ちゃんと謝るって、どういうことかわからないまま大人になってしまった。

恥ずかしいことに、そうだったから。
いつまで経っても、ちゃんとした「人間関係」を築くことができなかった。
当たり前だよね。謝れないんだもの。
そんな人と深く関わり続けるなんて、できない。

できないから、彼は「きちんと怒る、叱る」をし続けてきてくれた。

わたしは、
本当に「恵まれている」と思う。

自分が変わりたかったことは、確かだけれど
でも、ここまで「関わり続けよう」としてくれる
パートナーみたいな人が居てくれたことで
わたしは自分を諦めないですんだ。

まだまだ、自分が成長すべきところは沢山あり。
人間関係における課題も、色々とある。

そんな今だけど。
でも、わたしは確実に「謝れること」ができるようになってきている。
完璧ではないけれど。いまだにトラブルを生むこともあるけれど。
過去の自分と比べて「できること」は増えている。

もう、許してもいいんじゃないだろうか。

いつまでも
過去に「謝って欲しかったひとたち」のこと。
自分の中に「イヤなもの」「イヤな感情」として
残しておく理由があるだろうか?


そんなに「大事なこと」だろうか。
今。
今のわたしにとって。
今、わたしの大切な人たちにとって。

わたしが抱えているそれらは
何か「いいもの」を与えてくれる?

ないよ。
一つもないよ。

なんなら「害」だよ。
イヤな気分。そして、対人関係における「ネガティブな感情」の発露。
その原因。そのトリガー。

なんにも、いいことない。

じゃあ、もう「どうでもいい」じゃない。
私は、もう彼らと「違う」わけで。
私は、確実に「謝れる自分」を手にいれてきている。

ステージが、違うじゃない。

関わる人たちだって、変わる。
もう、変わっていい。

いつまでも、
そういう「ダメな男」にわかってもらいたい。認められたい。謝って欲しい。

そんな欲。希望願望。
終わらせていいじゃない。

別に、全然「いいものじゃなかった」じゃない。
シェフに謝ってもらって「気がついた」けどさ。
あんなもんだよ。もし、謝ってもらったとしても。
口だけ。もしくは「世間体(自分のデメリットを避けるため)」のことでしょう。

そうじゃなきゃ、既に「謝ってる」でしょう。

ね。

謝れないんだからさ。
そういう「人間性」の人たちじゃん。残念ながら。
なんか、未練ある?

ないよね。
家族だったけど。
そういう人たちが「たまたま、昔一緒に暮らしてた」けどさ。
もう、うんと昔で。
しかも、彼らは彼らで「全然違う人生(世界)」を生きている。

それで、いいじゃない。

彼らは彼らで、わたしに対して「思うこと」あるだろうけど。
もう、別に「関わる必要も理由もない」わけで。
全然、なくて平気だから、「今」なわけだし。

今、
求めたいもの、本当に、ありますか?



ない!!!!!!!!!!!



ないじゃん!!!笑


じゃあ、もう、本当にいいじゃん。
思い返すの、終わり。
いつまでも、「ネガティブ」で「不要な欲求」持つの、終わりね!!!!!

うん。
だいぶスッキリしてきた。

まじで、いらね。


要らないもの
抱えていたなーーー。

もう少し、別で書こう。「男に対して」のこと。

つづく

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